明治大学リバティアカデミー特別企画 これまでのコミケ、これからのコミケ ― 場を繋いだ50年 ―に参加してきた。
知人が気にしていたので可能な限り文字起こしをしてみる。発言者のメモは適当なので、誰がこういう発言をした、というよりはこんなニュアンスの事を誰かが発言した、程度の受け取り方で。この人の発言だったよ!とかあればコメントもらえれば気がついたら直します!自分的に刺さった所を赤文字とかにしてみる。
- 《明治大学 米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館 連携講座》講演録(第1部)
- どのようにコミケに関わってきたか
- 2代目代表米沢氏について
- コミケ以外の同人誌購入会や頒布する場について
- 《明治大学 米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館 連携講座》講演録(第2部)
- 森川嘉一郎先生からの締めの一言
《明治大学 米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館 連携講座》講演録(第1部)
登壇者
原田央男
コミックマーケット準備会初代代表
安田かほる
コミックマーケット準備会共同代表
筆谷芳行
コミックマーケット準備会共同代表
市川孝一
コミックマーケット準備会共同代表
里見直紀
コミケット広報担当
《ごあいさつ、解説》
藤本由香里
明治大学国際日本学部教授
森川嘉一郎
明治大学国際日本学部准教授
《司会進行》
みさき絵美
マンガ司書
明治大学リバティアカデミー特別企画 これまでのコミケ、これからのコミケ ― 場を繋いだ50年 ―に参加してきたので可能な限り文字起こし。
みさき絵美(司会)
今回は、コミックマーケット50周年、本当におめでとうございます。コミックマーケットは1975年12月に始まりました。私自身が初めてコミケに参加したのは、1988年か89年、晴海の時期だったと記憶しています。
当時、「コミックマーケットがすごいことになっている」と聞いて初めて足を運びました。私はその頃、新評論社に勤めていたのですが、会場には、きらびやかな表紙や、商業出版の場ではなかなか実現できないような、本当に美しい装丁の本がたくさん並んでいて、夢のような場所だと感じました。そこで出会った作家さんが後に商業デビューし、高い評価を得ていくのを見ることができたのも、大きな喜びでした。
しかし、コミックマーケットで最も重要なのは、やはり「この場をみんなで作り上げていく」という点だと思います。コミックマーケットは「マーケット」であり、「自由」であることを大切にして始まりましたが、そこには単純な意味での「売る人」と「買う人」、あるいは「お客さん」がいるのではありません。全員が参加者であり、その自覚を持ってこの場を作り、守っていく。その意識が参加者全体に共有されていたことは、本当に素晴らしいことだと思います。
もう一つ重要なのは、コミックマーケットが、人気サークルや人気ジャンルを単純に優遇する仕組みにはなっていない、ということです。もちろん人気サークルが壁配置になることはありますが、それは待機列が通行の妨げにならないようにするためであって、人気があるから特別扱いするということではありません。むしろ、一つしかないサークルや、少数の表現の場をできるだけ尊重する、という考え方が根底にあります。
これは、現在のインターネット環境とも対照的です。ネットでは、どうしても人気のあるものに人が集中し、人気順に見られていくことで、ほかの作品がほとんど見られなくなってしまうことがあります。その点、コミケには、いろいろな作品に出会える仕組みが、1975年の始まりの時点からすでに組み込まれていた。そのことは非常に大きく、重要な意味を持っているのではないかと思います。
今回、コミケともゆかりの深い明治大学で、この50周年の節目を迎えることを大変うれしく思っていますし、展示もとても楽しみにしています。これまでの資料が数多く展示されており、安全管理や運営上の課題への対応、そしてコミケの歴史そのものについて知る機会は、実はそれほど多くありません。今回の機会に、後からたどることができるよう資料を整理し、展示として公開できたことに、改めて感謝申し上げます。
それではここからは、原田さんにお話をうかがいます。コミックマーケット創設についてまとめられたご著作の中では、コミケのスタートに漫画雑誌『COM』の影響があったこと、また当時、原田さんが大学生で、大学との関わりの中で活動されていたことなどが書かれています。まずはご自身のご紹介と、どのようにコミケに関わってこられたのかをお話しいただけますか。
どのようにコミケに関わってきたか
原田
ありがとうございます。コミックマーケットの始まりを考えるうえでは、当時の漫画ファンの動きや、大学の漫画研究会、そして『COM』のような雑誌の存在が大きかったと思います。商業誌を読むだけではなく、自分たちでも何かを作りたい、語りたい、発表したいという気持ちが、少しずつ形になっていった時代でした。
当時は、少女漫画のファンクラブ的な動きもありましたし、大学の漫画研究会のような場もありました。そうした複数の流れが重なり合う中で、「共通の場」が必要なのではないか、という意識が生まれてきたのだと思います。
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みさき絵美(司会)
ありがとうございます。ご自身の活動に加えて、少女漫画のファンクラブの動きや大学との関わりがあったことがよくわかりました。
続いて安田さんにうかがいます。原田さんが初代代表を務められた後、1980年から米沢嘉博さんが2代目代表を務められ、安田さんは2006年から、第二部にもご登壇される市川さんとともに共同代表を務められました。コミケには第2回から参加されていたとうかがっています。ぜひ、ご自身のご紹介と、最初の頃のコミケに参加したときのことをお話しいただけますか。
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安田
はい。私は第2回から参加していました。きっかけは『少女コミック』のお便り欄に載っていた、ほんの短い案内でした。「春休みにこんなイベントをやるよ」という三行ほどの告知で、それがコミックマーケットだったんです。
当時は春休みで時間もありましたし、『少女コミック』は私にとって本当に大事な雑誌でしたから、そこに載っているなら行ってみようと思ったんです。もしかしたら萩尾望都先生に関係する本があるかもしれない、そんな気持ちもありました。
会場は板橋産業連合会館でした。ところが行ってみると、階段は狭いし、人は並んでいるし、とても整然としているとは言えない状況でした。受付のあたりもかなり慌ただしくて、当時の私には「ずいぶんバタバタしているな」という印象でした。でも、階段に人が並んで待たされているのを見て、「これはちょっと手伝ったほうがいいんじゃないか」と思って、初めて来たイベントなのに、その場で「手伝います」と言ったんです。
そうしたらイベント終わりに葉書を渡されて、「これに住所と名前を書いて置いていって。次が決まったら、裏にガリ版で案内を書いて送るから」と言われました。それで次の夏休みに本当に葉書が届いて、また手伝いに行った。そうやって、今に至っています。
当時は「みんなで作るコミケなんだから、みんな手伝おうよ」という空気が強くありました。サークル参加者も、ある意味では半ば当然のように運営を手伝っていたんです。そもそも最初の頃はサークル数も参加者数も今とは比べものにならないほど少なくて、第一回の時点でも七十人くらいだったと思います。ビルの会議室を借りて開く、本当に小さなイベントでした。始めた側も、何回かやったら終わるかもしれない、というくらいの感覚だったと思います。
ところが実際には、回を重ねるごとに参加者がどんどん増えていった。当然、人手が足りなくなる。すると、顔見知りに「じゃあ君もやってよ」と声をかけて回すしかない。そんな運営でした。しかも、次の回にどこの会場が取れるかもわからないから、来たい人には白い葉書を渡して、決まったら案内を送る。最初の頃は、そういうやり方がかなり長く続いていたんです。
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みさき絵美(司会)
ありがとうございます。今映している写真には「迷宮76」と書かれているので、その頃のものだと思います。この写真は、どういうタイミングのものなのでしょうか。
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原田
「迷宮76」のポスターがあるということは、1976年のコミケですね。第2回か第3回、板橋産業連合会館の頃だと思います。テレビ局の取材が入っていて、「明治大学のあるサークルが作ったコミックマーケット」というような紹介をされたんですが、それは実態と違う。前列の右端、デニムっぽい服を着ているのが米沢さんの関係者で、そのあごの下あたりにいる、タバコをくわえた男が私です。
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みさき絵美(司会)
続いて(スライド写真を見ながら)こちらは米沢嘉博記念図書館の常設展示でも紹介されている資料で、今回の展示にも出ています。コミケが始まる前後に、パンフレットをどう作るか、参加者に何をどう伝えるかを記した記録で、私たちは「迷宮ノート」と呼んでいます。
ここには、パンフレットに載せるべき内容――日時、場所、宣伝のお願いなど――が書かれています。また文章の中には、「漫画サークルは何百何千とあると言われているが、それぞれが活動していても共通の場がないため、活動が広がりにくい。だからこそ、定期的な場を持つことが必要だ」という趣旨のことが書かれています。このノートについて、覚えていらっしゃることはありますか。
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原田
ありますね。非常に思い入れのある資料です。もちろん、私一人で書いたわけではありません。さっきも出たように、何人かのメンバーで相談しながら作っていったものです。ですから、当然のことながら、いろいろともめました(笑)。でも、そうやって議論しながら作っていったこと自体が、あの時代らしかったと思います。
2代目代表米沢氏について
みさき絵美(司会)
お二人にとって、米沢さんはどのような存在でしたか。出会った頃と、その後とで印象に変化はありましたか。
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安田
私が最初に接した頃、私は高校を出たばかりで、18歳くらいでした。一方で「迷宮」の人たちは20代前半くらいで、みんな評論を書くようなお兄さんたちだったんです。だから、すごく怖かったですね。理屈っぽいというか、でもその理屈がちゃんとしていて、萩尾作品の魅力だとか、いろいろなことを一晩中でも語れるような人たちでした。
当時の私には、そこまで順序立てて漫画を考えたことがなかったので、すごく大人に見えました。少し引いて見ていたところもありましたけれど、話している内容は本当に面白かったんです。それで、「ああ、そういう見方があるんだ」と思いながら、また次も来よう、という気持ちになっていきました。
当時は、漫画を読むこと自体に対して「もう卒業しなさい」というような空気もまだ強くありました。そんな中で、漫画についてもっと話したい、もっと深く考えたいと思ったときに、ちょうどコミケがあって、「迷宮」の人たちと出会えた。そのことは大きかったですね。怖かったけれど、魅力もありました。
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みさき絵美(司会)
今のお話にもつながりますが、初期のコミックマーケットは、同人誌の即売会であると同時に、古本を持ち寄ったり、歌を歌ったりと、かなり多様なプログラムがあったんですね。その中には「ダイナビジョン」という企画もありました。米沢嘉博記念図書館の展示や『コミケの源流』でも触れられているものです。本日はそのアーカイブ映像もご用意いただいていますので、一部だけご覧いただきたいと思います。
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映像流れる
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みさき絵美(司会)
ご覧いただいたように、同人誌に限らず、自分の好きなものを形にしたい、表現したいという気持ちが集まっていたことがよくわかります。また、そうした人たちがコミケだけでなく、さまざまな場所で活動していたこともうかがえます。
ここで少し話題を変えますが、当時、コミケ以外にも同人誌を交流・頒布する場はあったのでしょうか。
コミケ以外の同人誌購入会や頒布する場について
安田
同人誌を集めて交流するような動き自体はありました。ただ、今のような即売会の形が広くあったわけではありません。当時は『COM』が、ある意味で情報のハブのような役割を果たしていて、そこにいろいろな同人誌の情報が載っていました。商業誌ではない作品を読みたい人は、『COM』を見て、そこに載っている相手に手紙を書き、郵送で本を送ってもらう、というようなやり方で手に入れていたんです。
友達同士で集まって見せ合うようなことはあったかもしれませんが、少なくとも、コミケのような形で広く開かれた場は、当時ほとんど見当たりませんでした。その後、何年かしてから別の即売会も出てきますが、最初の6年、7年くらいは、やはりコミケだけだったように思います。
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みさき絵美(司会)
そうすると、「ほかにない場」であるという意識は、参加者にとってもかなり強かったわけですね。では、原田さんから米沢さんへ代表が引き継がれる時には、「これから託す」といったような明確な場面があったのでしょうか。
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安田
そこまで劇的な感じではなかったと思います。当時は、今のように常に準備会に詰めているわけではなくて、普段はそれぞれの生活があって、イベントの時に会って、当日手伝って、という感じでしたから。「変わる」「変わらない」ということを強く意識するような雰囲気ではなかったですね。
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みさき絵美(司会)
ただ、それでも続いていくという感覚はあったのでしょうか。
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安田
正直に言えば、毎回、会場から何かしらクレームが来て、次の会場を探して、また借りられなくなって、ということの繰り返しでした。ですから、「安定して続いていく」というよりは、その都度なんとか次をつないでいく、という感じでした。
たとえばコミックマーケット4の頃には、参加希望者に対して「申し込みが相次ぎ、販売スペースは満了となっています。ただし立ち売り形式であれば参加可能です」といった案内を出さなければならないほどでした。やるたびに申し込みが増え、参加者も増え、会場の規模をすぐに追い越してしまう。あとから「ヤドカリ生活」と言ったりしますけれど、本当に、殻が小さくなったら次の大きな殻を探す、ということの繰り返しだったんです。立売形式は1回だけでしたね。
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安田
その後、大田産業会館が使えなくなって、「こういう使い方をするなら貸せない」と言われてしまったことがありました。それで新しい会場を探していた時に、川崎市民プラザが見つかったんです。ちょうどできたばかりの施設でした。
私は、川崎市民プラザが今のコミケにつながる大きな転換点だったと思っています。それまでの会場は会議室中心だったので、人が並ぶと階段や廊下にしか列を作れないし、入場待機列と入場者がぶつかってしまう。入れ替え制にせざるを得ないこともありました。でも、会場をまとまった形で使えるようになると、列を外に流すとか、外に机を出して対応するとか、そういう発想が可能になったんです。
また、見本誌の回収についても、今につながる仕組みの原型が見えてきました。サークルが見本誌を出すとしても、どこに出せばいいのかわからない。だったらスタッフが回収に回ればいい、という発想が生まれる。もちろん、その後いろいろ改良されていくわけですが、そうした運営上の考え方の転換を促してくれたのが、あの会場だったと思います。
コスプレについても、当時は裏の日本庭園のような場所で自由に過ごせたこともあって、かなり広がっていきました。まだ晴海のような大規模会場が使える時代ではなかった中で、川崎市民プラザは、コミケが広がっていくための考え方を育ててくれた場所だったと強く感じています。
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原田
それから、当時の同人誌には、もちろん既存作品に基づくものもありましたが、同時にオリジナル作品もありました。商業誌とは別に、編集者の判断とは関係なく、自分たちが好きなものを好きなように作る。その価値が確かにあったんです。そういう作品が同人誌として持ち寄られ、そこからまた新しい流れが生まれていった。そのことも、初期のコミケを考えるうえで重要だと思います。
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みさき絵美(司会)
そろそろ第一部のお時間が近づいてきました。最後に、お一人ずつ一言ずついただけますでしょうか。
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原田
コミックマーケットは、誰か一人が作ったものではありません。当時のスタッフ全員が力を合わせて作ったものです。その時、たまたま私が代表という肩書きを持っていただけにすぎません。今日この会場にも、当時のスタッフが何人も来ていますが、私は彼ら一人ひとりがコミックマーケットの担い手だったと思っています。皆さんにも、そう受け取っていただければと思います。
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安田
私自身、こういう世界に触れて、ずっと関わってこられたことを本当に良かったと思っています。正直、最初の頃は10回くらいやったら終わってしまうんじゃないかと思っていました。でも実際には、いろいろなところから、小さなことでも手を差し伸べてくれる人が現れたんです。たとえば会場が使えなくなった時に、「新しい会場がありますよ」と教えてくれる人がいたりする。そういう助けが積み重なって、50年続いてきたのだと思います。今日こうして最初の頃の話をしていると、そのことをしみじみ思い出します。
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みさき絵美(司会)
ありがとうございます。まだまだお話をうかがいたいところですが、お時間となりましたので、第一部はここまでといたします。この後、休憩を挟みまして、第二部は15時45分から開始いたします。ご参加ありがとうございました。
〜ここで15分の休憩が入る〜
《明治大学 米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館 連携講座》講演録(第2部)
みさき絵美(司会)
第一部では、コミックマーケット準備会初代代表の原田さんと安田さんに、コミケ初期のことをいろいろとうかがいました。
ちなみに、休憩中に米沢嘉博記念図書館のスタッフの方から教えていただいたのですが、本日のお申し込みは700名を少し超えるくらいとのことでした。ちょうど第1回コミケの参加人数に近い規模だそうで、そう考えると感慨深いものがあります。
#席は満席でした

第二部では、もう少し時代を進めて、コミケの拡大期や会場の変遷、そして現在へとつながる運営のあり方についてうかがっていきたいと思います。まずは、コミケとの関わりについて、市川さんからお願いします。
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市川
よろしくお願いします。私は途中から大学に行かなくなって、中退だか除籍だか、そんな感じになってしまったんですが、本人としてはずっと「卒業、卒業」と言っていました(笑)。
私は明治大学の経営学部に1年だけ通っていました。そんな自分が、こういう立派な場所に出てきていいのかなと思いながらここに来ています。最初にコミケに行ったときは、やはりみんなと同じように、「こんなにたくさん仲間がいるんだ」と驚いたのがきっかけでした。
その後、コミケとその周辺のスタッフに、今はもういなくなってしまったスタッフの方に引きずり込まれるような形で関わるようになりました。ちょうど、米沢さんが何かやらかした案件があって、事務の人たちがあまり手伝わなくなった時期があったんです。その頃、私は大学1年生になったばかりで、米沢さんの奥さんから「明治大学なら事務所にもすぐ来られるんじゃない」と言われて、それが始まりでした。そこから今に至っています。
最初は「ちょっとコミケを手伝ってよ」と言われて、一般参加者だったところを引き抜かれるような感じでした。当日、いきなりいろいろやらされて、それが最初でしたね。その次の回からは、きちんとスタッフとして関わるようになりました。
その頃から、コミケットだけでなく、ミニコミの部屋のような活動や、ほかの同人誌関係の場のスタッフも一緒にやっていました。そうした中で、同人誌というものは面白いな、と感じていましたし、自分でもサークルをやっていました。友人3人くらいでやっていたサークルもあったんですが、ものを作るには場所が必要で、どうしようかと思っていた時に、事務所が借りられる、いても大丈夫、手伝いも「いつ来てもいいよ」という感じだったので、そこで自分たちも同人誌を作りながら、いついてしまったんです。
その後、自分でもいろいろやりながら、コミケの運営にも関わり続けてきました。今は少し立場が変わってしまいましたけれど、気持ちとしてはずっとスタッフの一人ですし、いつでも現場に出たいという思いは、みんなと同じように持っています。今日はよろしくお願いいたします。
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筆谷
筆谷と申します。私とコミケとの出会いは、1986年か87年くらいだったと思います。
高校時代に、委員会に入ったら悪い友達がいっぱいいまして(笑)、皆さんもそういう経験があるかもしれませんが、そういう感じで、アニメや模型の世界に近づいていきました。学校の近くに、かなりマニアックな模型屋があったんです。そこで当時流行っていたのが、『超時空要塞マクロス』の最初のシリーズに関連した、いわゆる航空雑誌を模したバルキリー本でした。写真もレイアウトも文章も、全部がものすごく凝っていて、「こういう本が欲しければコミケに行けば買えるよ」と言われたのが、最初のきっかけでした。
ちなみに、その本を作った人は、コミケの救護室のお医者さんでもありまして、『マクロス7』のドクター千葉のモデルにもなった方なんです。そういう、ちょっとした“地続き”の話がたくさんあるのも、コミケの面白さだと思います。今日はよろしくお願いします。
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みさき絵美(司会)
ありがとうございます。今お話しいただいたお二人は、どちらかというと、コミケが初期から少し進んだ時期に参加された世代かと思います。そうした中で、スタッフ同士のつながりや、初期から続いてきた人間関係、前の世代から受け継がれてきたものについては、どのように感じていらっしゃいますか。
特に、第一部からの続きにもなりますが、安田さんにうかがいたいと思います。第一部では、第8回の頃に米沢さんの存在を強く意識した、というお話がありましたが、何があって「米沢さんだ」と思われたのでしょうか。
2代目の米沢代表について
安田
その当時、「集会」と言うと、喫茶店で6時間くらい、関係あることや関係ないことを延々と話す、という感じだったんです。漫画の話をして、その周辺の話をして、また漫画の話に戻って、というようなことをずっとやっていました。
当時、新宿に、今ではちょっと考えられないような巨大な喫茶店があって、その奥のほうで、直径10センチくらいの灰皿を一人一皿ずつ持って、山のように吸い殻を積み上げている人たちがいたんです。一人が米沢さんで、もう一人が別の方でした。私はそれを見た瞬間に、「この近くの空気は汚染されているから近づかないでおこう」と強く思いました(笑)。その“発生源”の一人が米沢さんだった、というのが最初の印象ですね。
もちろん、その前から「米沢さんという人がいる」ということ自体は聞いていました。迷宮の中でも、「あれは頼んである」とか、「そっちは誰がやっている」とか、そういう話の中で名前は出ていましたし、当時、迷宮が出していた本がものすごく面白くて、よく売れていたんです。青焼きコピーで、とても手間のかかる作りの本を出していたので、迷宮の人たちは徹夜で本を作っていて、会場の鍵を開ける時間になってもなかなか来られない、ということもありました。
それで何回かそういうことがあって、「じゃあ関係ない人でもとりあえず鍵を開けられるようにしよう」みたいなことになったりして、少しずつ役割分担ができていったんです。ちょうどそのあたりが、私が米沢さんをはっきり認識した時期だったと思います。
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みさき絵美(司会)
回を重ねるごとに、スタッフの動きや役割も少しずつ定まっていったわけですね。皆さんは、米沢さんをはじめ、初期からのスタッフの方々について、どのような印象を持っていらっしゃいますか。
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市川
僕が入った頃には、もうかなり仕組みができていました。ただ、最初に僕を引っ張ってくれたスタッフの方の話を聞くと、「あの人に電話するなんて相当なことなんだけど」というようなこともあって、やっぱり独特の距離感があったんだなと思います。
池袋の喫茶店で作業している時に、一人でタバコを吸っている人がいて、「なんで作業中に喫茶店で一人でタバコを吸っているんだろう」と思った記憶があります。今思い出すと大変なんですけど、当時はそういう人たちがいたんですよね。
でも、実際に任されてみると、最初から全部を教えてくれるわけでもないし、配置の仕方もよくわからないままやっていたし、同人誌も作ったことがないのに現場に入っていたりして、結局は周りの人に教えてもらいながら覚えていくしかなかった。夜中に先輩のところへ行って、「こうやってやるんだよ」と教えてもらったりもしました。そういう意味では、かなり手探りでしたね。
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筆谷
僕はどちらかというと、事務の中の人たちに近いところから入っています。そういう流れの中で知り合って、その前から顔見知りだった人もいました。そういう中で、いつの間にかコミケに関わるようになっていった感じです。
人が増えれば、もちろん参加者も増えるし、それに伴ってスタッフも増える。やることも増える。まさに大規模化に向かって動いている時期だったと思います。
コミケ会場の歴史について
みさき絵美(司会)
ありがとうございます。ここで、今回の第二部のテーマでもある「会場の変遷」についてうかがいたいと思います。事前にいただいた質問の中に、「私は晴海会場からの参加者で、ゴジラ館が好きでした。登壇者の皆さんの思い入れのある会場と、その理由をエピソードを交えて聞かせてください」というものがありました。
安田さんからは先ほど川崎市民プラザのお話もありましたが、皆さんそれぞれ、思い入れのある会場はありますか。また、会場が変わることで、運営や参加者にどのような影響があるのかも教えていただければと思います。
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市川
今、後ろに映っているのは手書きの会場図ですね。今回の展示にも出ています。僕自身が本当にスタッフとして深く関わった時期の会場として印象深いのは、晴海です。最後の頃には「さよなら晴海」的な特別な空気もありましたし、いろいろな意味で思い出深い会場でした。
それから印象が強いのは、TRCです。あそこは本当に、普通の人がたくさん来てしまう会場でもあって、混雑というレベルでは済まないことがありました。並ばせるというより、とにかく外に人を出すしかない、というような状況もあった。一般参加者をそのままホールやスロープに流していくような運用をしていたので、非常によく覚えています。
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安田
会場の歴史というのは、結局のところ「落選するサークルをできるだけ出したくないから、より広い会場へ移っていく」という歴史でもあったんです。より広い会場を求めて移っていく。ただ、晴海が使えなくなった時には、広い会場がない。そこで、まさかの開催を「1日から2日間へ」という発想が出てきたわけです。地面がなければ時間を増やそう、ということですね。
ただ、これがまた大変で、平日に開催すると会社を休まなければならない。今なら趣味のために休むことも珍しくないかもしれませんが、当時は会社にばれるし、なかなかつらかったですね。
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みさき絵美(司会)
近年でも、東京オリンピックなど、さまざまな事情で会場変更を余儀なくされることがありました。会場が変わることに対して、運営として特に気をつけていることはありますか。
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市川
そうですね。会場そのものが変わることもありますし、同じ会場でもホールの使い方が変わることもあります。今は本当にスタッフが優秀で頑張ってくれているので、我々が大きな方針を出せば、それに沿って「こういう形ではどうか」というプランが上がってきます。それを見ながら、みんなで考えていく、というのが今の流れですね。
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藤本(司会)
開催日数が2日間になるとか、3日間になるとか、そうした変更も参加者にとっては大きなポイントだと思います。そのあたりの広報や反響について、筆谷さんはいかがですか。
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筆谷
以前は、次回の開催情報は前回のコミケカタログで発表する、という形が基本でした。でも数年前からは、環境が整っていて発表できるなら、できるだけ前倒しで発表しようという方針に変わっています。
特に最近は海外から来る方も多くて、体感では1割くらいは海外からの参加者ではないかと思います。そうなると、航空券を取るとか、宿を押さえるとか、いろいろ準備が必要になります。スタッフの宿泊の確保もありますから、段取りが決まり次第、できるだけ早くお知らせするようにしています。最近は久しぶりの開催形態もあったので、なおさら早めにお知らせすることを意識していました。
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里見
でも、みんなXのポストの先のページを見てくれないんですよね(笑)。「3日間は今回限りです」と書いてあっても、「次も同じ3日間ですか?」と聞かれたりする。
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みさき絵美(司会)
会場にまつわる話では、1998年の会場内での放火事件などもありました。今回の展示でも、その資料を紹介しています。近年でも、事件や事故への対応は大きな課題だと思いますが、その点についてはいかがでしょうか。
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筆谷
ああいうことが起きると、本当に緊張します。いつ何が起きるかわからない。その後もいろいろな出来事があるたびに、やはり身が引き締まる思いがします。「今回は何もないといいな」と毎回思っています。
コミケットの基本は、「何かが起きたらどうするか」ではなく、「起きないようにする」ことなんです。警察や会場の方から「もし何かが起きたらどうするんですか」と聞かれることがありますが、我々としては「起きないようにちゃんとチェックし、準備します」と答える。それでも起きてしまったら、その時はきちんと対応する。そのために消防訓練や避難訓練もやっていますし、会場の巡回や定期点検も行っています。開場前、お昼、閉会前と、危ないものがないかを確認して回る。そういう積み重ねが大事なんです。
警察からは簡単に「コミケをやめたら」と言われることもあります。でも、そうではなくて、どうすれば続けられるかを考えながら、事前の準備を徹底して、平和に開催できるようにしている。そういう意味で、本当に大変だとは思っています。
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筆谷
最近は、警察や消防の方も比較的理解があると感じます。ただ、会場も警察も、同じ人が10年、20年とずっと担当するわけではなく、ローテーションで変わっていくんです。だから、新しく来た人には毎回、「なぜこれだけ人が多いのに将棋倒しも起きないのか」「なぜ喧嘩が起きないのか」と聞かれます。
これだけ大きなイベントなら、たとえば大規模スポーツイベントのように、言い合いやトラブルが起きてもおかしくないと思われるんでしょう。でも、我々が答えるのは、「みんな自分の目的の場所に早くたどり着きたいから、スタッフの言うことを聞くし、事前にルートも調べている。そんなところで喧嘩している間に本が完売したら困るでしょう」ということです。そういう意味で、参加者の側にも非常に強い合理性があるんです。
この規模のわりには本当にトラブルが少ない、とよく言われます。要するに、非常にスムーズに回っている。これは明らかに文化として作られてきたものだと思います。担当者が変わっても、「あそこのイベントは人は多いけれど、参加者も無茶をしないし、トラブルも少ない」という認識がちゃんと引き継がれている感じがあります。
今後のコミケの展望などについて
みさき絵美(司会)
長い時間をかけて、コミックマーケットという場そのものが、参加者のふるまいも含めて文化として積み重ねられてきた、ということですね。
一方で、コミケは大きくなり続けてきたイメージが強いですが、事前質問の中には、「今は女性参加者より男性参加者のほうが多いのではないか」「日本の人口減少を考えると、今後も参加者が増え続けるとは限らないのではないか」といったものもありました。この点については、どのようにお考えですか。
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安田
本当に、最初はこんなふうになるなんてわからなかったし、今でも「ここまで来たか」と思うことがあります。これだけ人が来てくれるのはうれしいし、すごいことだと思っています。でも、いつかは変わる時が来るんだろうな、という感覚もどこかにはあります。日本の人口が減っていく中で、いろいろなことが起きていく。今のこの夢のような時間が、いつまで続くのかということは、いつもどこかで考えています。
ただ、それが大きかろうが小さかろうが、コミケットはコミケットなんです。今いる人たちがいて、コミケットの理念が共有されていて、みんなに回っていれば、それはコミケットなんです。大きさだけが本質ではない。そこにいる人たちが「コミケットだ」と考えて参加していることが大事なんです。だから、規模がどうであれ、続いていけばいいと思っています。
女性参加者が減ってきた、という話もありますが、それも長い流れの中の一つなんだろうと思います。100年後にどうなっているかなんて、正直わかりません。今は今の状態なんだろう、ということです。
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原田
初期に女性が多かったのは、私の推測ですが、『少女コミック』で宣伝されたことが大きかったんでしょうね。あの頃は少女漫画ブームでもありましたし、読者コーナーや文通コーナーのような場も活発でした。そういうところから流れてきた人が多かったのではないかと思います。
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安田
今、女性サークルが減ったという話も、比較の仕方によるところはあると思います。たとえば、ほかのイベントではスペースが取りやすい。申し込めばだいたい取れるし、半年先の予定でも出やすい。そうなると、ジャンルによってはそちらに流れていくこともあるでしょう。
やっぱり、一緒に楽しむ、自分のサークルで本を出して一緒に遊ぶ、ということを考えると、スペースが取れないと意味がない。だから、ほかのイベントにもそれぞれの魅力があるんです。我々としては、「いつ戻ってきてもいいように続けていく」ということが一番大事なんです。
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筆谷
昔は、就職が決まると同人活動ができなくなる、という空気もありました。でも今は、就職したからといってすぐにやめるわけではない。時代が変わってきているんです。
一方で、リストバンド型参加証を書店や専門店で販売している関係で、販売データを見ると、購入者の半分くらいは20代以下なんですね。つまり、新しい人、若い人はちゃんと来ている。だから、あとはその来た人たちを、どうサークル参加へつなげていくか。そこが課題なんだろうと思っています。
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みさき絵美(司会)
ありがとうございます。今のお話にもあったように、現時点でも本当に多くの人が参加していて、それぞれに好きなジャンルがあり、必ずしも全員が同じものを見ているわけではない。そうした多様な人たちの期待や希望を、運営としてどう受け止め、どうまとめていらっしゃるのでしょうか。
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安田
昔で言えば、やっぱりカタログが一つの教科書だったと思います。漫画で描かれていることも含めて、あれを読めばコミケのことがわかる、というものだった。今はSNSなどでもいろいろ情報が出ますが、欲しいものを手に入れるためには、ちゃんとルールを学ばなければいけない、ということは、みんなわかっていると思います。
割り込んだり、押したりしても、欲しい本は買えないんです。自分が欲しいものを手に入れるためには、ちゃんとルールを学んで、最初はうまくいかなくても、どうすれば次はもっと目的に近づけるかを考える。その積み重ねがある。昔も今も、先輩が後輩に教えていく、という構造は変わっていないし、これからも変わってほしくないと思っています。
我々は、あくまで場を維持するのが役目です。そこで何が起きるかは、参加者が自由に作っていく。たとえば、このジャンルを盛り上げようとか、この漫画を多めにしようとか、抽選を変えようとか、そういうことを準備会がやったことは一度もありません。どのジャンルも同じように扱う。準備会が「こっちの方向へ行くぞ、ついてこい」とやったことはないんです。
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市川
ないですね。2日間で何十万人が来ると言っても、結局はみんな、自分の身の回りの小さなクラスターの集まりなんです。そのクラスターの中でコミュニケーションを取りながらやっていく。その積み重ねが、今のコミケになっているんだと思います。
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みさき絵美(司会)
ありがとうございます。今のお話の中でも、「場を作り続ける」「積み重ねる」という言葉が出てきました。第一回の段階から、定期的に続けていくこと自体が大きなミッションの一つだったわけですが、続けていくための秘訣や、特に気をつけていることはありますか。
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市川
50年続いてきたわけですが、たまにずれることがあるんですよね。「これでいいんだろうか」と思う時がある。皆さんは、こちらが「理念、理念」と言っているのを、少し大げさに感じるかもしれません。でも、やっぱりずれそうになった時に、ちゃんと振り返るものがあるというのは大事なんです。
少し横着なことを考えたなと思っても、「それはどうなんだろう」と言ってくる仲間もいるし、顧問弁護士に「それはコミケットらしくありません」と言われることもある。そうやって立ち返る場所があるからこそ、自分たちの方向性を何度でも見直せる。それを繰り返しているから、ここまで来られたんじゃないかなと思います。
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安田
そうですね。僕ら3人の代表で話していても、必ず理念の話になるんです。何かを決める時には、一度理念に立ち戻る。理念を読み直してから、もう一度考える。そういうことをかなりやっています。
もともとの理念文は、今の若い人にはそのままだと伝わりにくいような、かなり古い文体の文章だったんです。だから、それを3人で少し噛み砕いて、自分たちの思いも乗せながら、新しい形にし直した部分もあります。
我々代表は、何かを独断で引っ張っていく立場ではないんです。みんなが望んでいること、やるべきことを、代表として判断し、進めていく。そういう意味では、3人の代表が創意工夫で何か画期的なことを独断でやる、ということはたぶんないんじゃないかな。やるべきことをやる、安全に開催していく、そのために必要なスペースを確保したり、日程や抽選率を調整したりする。そういうことの積み重ねなんです。
たとえば、東の7・8ホールができた時も、そこにサークルを置いたほうが当選率は上がるんじゃないか、という話はありました。でも、朝から並んでいる人たちの安全を考えて、まずは日陰や休憩場所を作ることを優先し東の7・8ホールは待機列用にした。そういう判断しか、我々にはできないんじゃないかなと思っています。
事前質問に対しての回答
みさき絵美(司会)
ありがとうございます。振り返りながら進んでいく、確認しながら続けていくというお話は、今回の展示がアーカイブを通じて過去を振り返る企画であることとも、非常に重なるように思います。
ここで、質問フォームに寄せられた内容から、もう少し「これから」についてうかがいたいと思います。せっかくですので、第一部にご登壇いただいた原田さんにも加わっていただき、初代代表、共同代表の皆さんから一言ずついただければと思います。
寄せられた質問の中には、「コミケ50周年とのことですが、100周年にはどういったコミケになっていますか」といったものや、また一方で、「人生の先輩方が亡くなっていく中で、自分も年を重ねながらコミケに参加していくことをどう考えればいいのか」といった思いを書いてくださった方もおられました。コミケのこれからについて、一言ずつお願いいたします。
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原田
先ほども言ったように、やはり「場としてあり続けること」が一番大事なんだと思います。どうすればいいか迷った時の拠り所として、そこを大事にしてここまで来ているので、この先もずっと続いていってほしいなと思います。
ただ、さすがにこの先50年となると、私はたぶんもういないでしょう。だから、若い人たちに「僕の考えた最強のコミケ」にしていってもらえればいいんじゃないかなと思います。ただし、続けていくための理念というのは、少しずつ変わることはあっても、全部が別物になってしまってはいけない。コミケットが「場」として存在するということ、それ以上のものになりすぎないことが大事だと思っています。そういう意味で、この先も粛々と続いていってほしいですね。
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安田
たぶん、僕がコミケのスタッフになった頃、30代のスタッフって一人くらいしかいなかったんじゃないかな。当時は、大学を卒業すると、就職すると、結婚すると、趣味をやめる、という時代でもありました。でも今は違います。30代なんてまだまだ若いし、40代、50代、60代、70代になっても、倒れない限りやっていていいんじゃないかと思う。もしかしたら80代でもやっているかもしれない。
サークル参加者も一般参加者も、好奇心と行動力があるから来てくれるんです。本が欲しい、本を作りたい、それを支えたい、そういう気持ちがある限り、これから30年、40年、50年先も、まだまだ続くんじゃないかなと思います。もちろん、我々がそれを全部見届けられるわけではないでしょうけれど。
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市川
これから先の50年、何が起きるかはわかりません。大きくなっていくのか、小さくなっていくのか、どういう形になるのかもわからない。でも、その時代その時代の人たちによって、新しくしてほしいこともあるし、変えてはいけないことも絶対に出てくると思うんです。
変えてもらいたいことは変えてもらえばいい。ただ、同人誌というものを中心にして、表現の場であり続けてほしい。それは絶対に忘れないでほしいと思います。そのうえで、周りの状況に応じて変わることはたくさんあるでしょう。僕ら自身も理念の文章を見直したりしてきましたし、その時その時の最善を選んでいってくれればいい。そういう人たちを、我々も見届けていきたいし、励ましていければいいなと思っています。
コミケをどうやって潰さずにここまで来たのか、そのことをちゃんと次に伝えていくことも大事だと思っています。最近は、会場の工事があったり、コロナがあったり、東京オリンピックがあったり、いろいろなことが続いています。少し落ち着いた時に、そういうことも含めて、次の世代に渡していけるようにしたいですね。
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筆谷
少し切り口を変えると、コロナの時に本当に強く思ったのは、世の中がまともに動いていて、平穏無事でないとイベントは開けない、という現実です。今も、紙が足りないとか、印刷資材がどうだとか、いろんな話があります。やっぱり、世の中が平和でないとだめなんです。
その時に何ができるかは簡単ではありませんが、コミケットも関わっている国際的な緩やかなネットワークの中で、情報交換をしたり、お互いを理解し合ったり、そういうことを少しずつやっています。何か新しい問題が起きるかもしれないけれど、その中でも、いい環境が続いていくといいなと思っています。少し願望も入っていますけれど、そういう切り口もあると思っています。
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原田
僕は、代表を辞めた後は外からコミケットを見てきたわけですが、結果として良かったと思うこともあります。もし自分がそのまま代表を続けていたら、たぶん「二次創作やコスプレのために始めたんじゃない」と言って、コミケそのものをやめてしまっていたかもしれない。でも、米沢さんたちが受け継いで、「何でもあり」という形で受け入れてきたからこそ、今につながっている。それはそれで良かったと思います。
ただ、今のコミケは「続けること」「維持すること」が一つの大きな目的になっていますけれど、始めた側の立場から言うと、もともとはそうではなかった。商業誌に漫画を描きたい人たちがいて、実際に描いている人たちがいて、同人誌という形でもいいから読んでもらいたい、という人たちがいた。だったら、自分たちで場を作ろう、という精神で始まったんです。
だから、仮に今の形のコミケがなくなったとしても、漫画を同人誌として描きたい人がいる限り、自分たちで作っていく限り、コミケ的なものは残ると思います。以上です。
最後に一言ずつ
みさき絵美(司会)
ありがとうございます。では最後に、50周年という節目、そして今回の展示やトークイベントの実現について、一言ずついただければと思います。
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原田
僕が少し関わる形で『コミックマーケットの源流』という本を作ったんですが、それがこうして50年という節目に、また別の形で残っていくというのは、感慨深いですね。ここまで人生を賭けるつもりはなかったんですけれど(笑)、リアルな場の大事さというのは、コロナを経て改めて問われている気がします。
ネットが普及すると、同人誌や即売会はもういらなくなるんじゃないか、と昔から言われてきました。でも、やっぱり本を作るのは楽しいんですよ。その楽しさを、もう少し強く伝えていきたい。本を作って、即売会に出て、その本を好きだと言ってくれる人と出会える。コミケでなくてもいいんですが、そういう場が長く続いていくといいなと思っています。
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市川
真剣に遊べる場って、なかなかないと思うんです。真剣に遊ぶって、すごくいいことだと思っています。コミケットは、真剣に遊べる大きな場なんです。漫画でも遊べるし、アニメでも遊べるし、いろんなことで遊べる。そういう場がコミケットなんだと思います。
この遊びを、みんなが真剣に考えて、真剣に遊んでくれれば、もっともっと楽しいものになるし、これから先もいろんなことができると思っています。僕自身にとっても、ここは何十年も遊んできた場です。これからの若い人たちにも、40年遊べる場であってほしい。50周年を迎えて、改めてそう思いました。
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筆谷
自分がなんでこの世界にいるのかなと考えると、やっぱり10代の頃から漫画とアニメが好きで、自分を育ててくれたものに対して、何か恩返しがしたい、という気持ちがあるんだと思います。それは趣味としてのコミケでもそうだし、本業のほうでもそうです。
『銀河鉄道999』の中に、「永遠の命というのは、人が生き続けることではなく、思いをつないでいくことだ」というような話があります。僕たちがずっとここにいられるわけではないけれど、自分たちが作った場の影響を受けて、その次の人たちが受け取っていく。そういう形で続いていけばいいんじゃないかなと思っています。
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安田
私が初めてコミケに来たのは1976年4月だったんです。そうすると、2025年12月がちょうど50周年のど真ん中で、今こうして2026年の春を迎えている。自分自身が本当に50年ここに関わってきたんだな、ということが、なんだか改めて実感されて、感慨深いですね。
ただ、一つだけ言いたいのは、やっぱり、くだらないことを言って笑い合える場であってほしい、ということです。そういう場を残したいと思って始めたら、本当に残ってくれた。そして、「ここがあるから仕事も頑張れる」と言ってくださる方もいる。そういう言葉に、こちらも助けられてきました。そういうことの積み重ねで50年やってきたんだと思います。
だから、次の人たちにも、そういう小さな気持ちのやりとりや、盛り上がりをもらったり与えたりできる場所であり続けてほしい。50年できたんだから、この先50年もきっとできると、根拠なく思っています。
森川嘉一郎先生からの締めの一言
みさき絵美(司会)
ありがとうございます。長い時間にわたり、さまざまなお話を聞かせていただきました。
それでは終わりに、明治大学国際日本学部准教授の森川嘉一郎先生より、まとめの言葉をお願いいたします。
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森川嘉一郎
ありがとうございます。私は明治大学の人間である以前に、明治大学に入る前から、ここ20年ほど個人参加者としてコミックマーケットに通ってきた人間でもあります。
今回、展示や映像を見ながら改めて感じたのは、この50年間のコミックマーケットには、大きく二つの変化があったのではないか、ということです。
一つは、最初の25年間に見られた、物理的な規模の拡大です。入場者数、会場規模、サークル数、そうしたものがどんどん拡大していった。先ほど「倍々ゲーム」という言葉もありましたが、まさにそういう時代だったと思います。そしてビッグサイトという、日本最大級の展示会場の物理的な面積の中でやりくりしていく、という段階に入っていった。
もう一つは、後半の25年間に見られた、社会の中でコミックマーケットがどう位置づけられるか、という変化です。先ほど「警察が優しくなった」という話もありましたが、博物館で展示されたり、国際的なイベントに関わったりと、社会の側からコミックマーケットに向けられる視線が変わってきた。
先ほど、準備会として特定の方向に誘導しているわけではない、というお話がありましたが、一方で米沢さんは、「同じことを続けているとマンネリになるから、5年に1回は違うことをやる」といったこともおっしゃっていたそうです。たとえば地方開催や、国際的な文化交流の場への関わりなど、そうした試みも行われてきた。
私自身、ある場に立ち会って驚いたことがあります。政治家の方々が祝辞を述べる場面で、与党と野党の議員がきちんとバランスよく招かれていたんです。これは単なる上昇志向ではなく、場を維持していくために、社会とどう向き合うかを非常によく考えた結果なのだろうと感じました。
これからさらに50年、と言うと少し遠すぎるので、あえて次の25年を考えてみたいと思います。これは未来予測というより、あくまで私の個人的な妄想として聞いていただければと思います。
2010年に出た調査では、コミケ参加者の平均年齢は30歳でした。10代、20代の若者文化というイメージがある一方で、40代、50代の参加者もかなりいる、ということです。そして、さらに印象的だったのは、結婚率に関する数字でした。全国平均と比べて、コミケ参加者の結婚率はかなり低かった。これは単なる数パーセントの違いではなく、10数パーセント単位で違っていたんです。
| 平均結婚率 | コミケ参加者 | |
| 女性 | 80% | 22% |
| 男性 | 70% | 14% |
この数字を見た時、私はかなり衝撃を受けました。ですが、次の25年を考える時、別にコミケが何か特定の方向を目指すべきだということではなく、結果として、コミックマーケットという場が、少子化や家族のあり方の問題に対して、何らかの緩和的な役割を果たしていた、と後から見えるようなことがあってもいいのではないか、とも思うのです。
たとえば、ここで出会いがあったり、関係が生まれたり、人生の支えになるようなつながりができたりする。そういうことも含めて、コミックマーケットという場の社会的な意味は、これからさらに広がっていくのかもしれません。例えばコミケ結婚をし、お母さんのペンネームを襲名する、等。
#その後、最新?のレポートでは10ポイントずつくらい上がっているらしい。
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みさき絵美(司会)
ありがとうございました。コミックマーケットが、単に大きくなってきたというだけでなく、社会との関わりの中で位置づけを変えながら続いてきたこと、そしてこれからもまた別の意味を持ちうる場であることが、よくわかるお話だったと思います。
それでは、この後は登壇者の皆さんとの写真撮影の時間とさせていただきます。初めにご挨拶いただいた橋本先生にもご登壇いただきます。本日はありがとうございました。展示は6月まで開催しておりますので、ぜひご覧ください。

原田さんは霜月たかなかという名前でコミケの本を出されている
【対面】これまでのコミケ、これからのコミケ -場を繋いだ50年-《明治大学 米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館 連携講座》
コミケ50周年展-コミケにまつわる50のアイテム- 関連イベント【特別企画/日本の文化・歴史】
https://academy.meiji.jp/course/detail/7957
こんな感じかな。
だいたいの雰囲気は伝わったと思います。


